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ハプニング 

どうだろう。M・ナイト・シャマランの紋所に世界がひれ伏すのか。

何の前触れもなく突然起こった奇怪な現象。ある日突然全米全土からミツバチの姿が消えたのを発端に、人々が次々と自殺していく異常現象が発生。高校教師エリオットは妻や友人の娘を守るため見えない脅威からの逃避行を続ける。逃れられるのか。人類はこのまま滅んでしまうのか。

TVCMはすこぶる興味をそそる。実際、本編でも衝撃的な映像は多い。

自分の首に鋭利な髪留めを突き立てる。動物に自分を食わせる。芝刈り機で身体を微塵にする。一丁の拳銃で次々に頭を打ち抜く人々。

それはそれで、思わず目をそらせたくはなる。しかし、それよりも、神経を逆なでするようでもあり、見入ってしまう映像がある。

何の変哲もない公園の風景が一瞬にして止まる。大勢の人々が微動だにしない。屋上から何の抗いもなく落下する人々。

おかしなことにこれらの映像は美しかったりする。

「ガスマスクを被り編み物する二人の老婆」に至っては、キューブリックの「シャイニング」の双子の女の子を彷彿させる。

この奇妙で美しい映像はインパクトがあり、脳裏に焼きついてしまう。この映画の最大の見せ場なんじゃないだろうかと思ってしまう。

そう思ってしまうほど、本編の展開には感心できない。

いつもの思わせぶりたっぷりのケレン味は身を潜めているし、画面から伝わる緊張感が足りない。

ひとつの原因は、キャストにあるのではないか。マーク・ウォールバーグ、ズーイー・デシャネル。彼らに緊張感がない。元々の表情にどこか深刻さが足りないのだ。よくいえば「かわいらしい」「キュート」なのだ。

この手の俳優は以前のこの監督の作品には登場しない。当然、キャスティングにも関わっているだろう監督の意図は何なのか。裏目に出ているとしか思えない。

お話も元々つじつま合わせをする気がないのに(出来きようがない)のに、それをしようと見せかけて、サスペンスを盛り上げようとはしているが、どうも浅いし、破綻さえしている。

まぁ、それでも最後まで見せてしまうのは流石の紋所。

個人的には「ヴィレッジ」も嫌いではないが、続く「レディー・イン・ザ・ウォーター」にしても芳しくなかったこの監督。

起死回生を狙ってはいたのかもしれない。

しかし、このままではシャマラン(シックスセンス)紋所も効力が失われて、もう彼の新作を見ることができなくなるような気がしてならない。

この作品が彼自身の「ハプニング」にならないことを祈るばかりである。

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クローバーフィールド 

話題の映画は何とも形容し難いものだった。

話の筋はこうだ。

夜のニューヨーク。転勤が決まった主人公を祝うためのサプライズ・パーティの最中、突然爆音が鳴り響いた。

次々に炎に包まれ、パニック陥っていくニューヨーク市街。軍の攻撃をものともせず、破壊の限りを尽くす謎の物体。

未曾有の大惨事の中、理由も分からぬままただ逃げまどうことを余儀なくされる人々。

主人公は彼女を救うことができるのか。謎の物体を制止することができるのか。

ストーリー的にはまぁこんなところであるが、映画自体はドキュメンタリー風で、パーティのビデオカメラがその大惨事を一部始終記録していたと言う設定になっている。

全編ビデオカメラを撮影する人の視線のみで映画が展開して行くというのがミソらしい。

手持ちのカメラで、しかも、ど素人の撮影(という設定)とあって、ブレまくるし、揺れる、ボケる、ズームイン・アウトを繰り返す、やたらとパンする。まさに下手なホームビデオの見本市的な映像の数々は製作者の狙いどおり。

確かにリアルに見えないことも無い。が、しかし、最初の爆音が鳴り響くまでの十数分間のパーティーシーンは全くイタダケナイ。映画導入部で「大惨事を記録したビデオカメラが発見された」風の語り口であったのに、全く整合性がない。

登場人物の紹介と人間関係の説明に必死。悪い意味で、本当のくだらないホームビデオを見せられている感じがして興ざめる。いったい私は何を観に来たのかと本気で思ってしまったほど、このシーンは長い。

それに、何より気に入らないのが物語を語ろうとし過ぎている点。

突然訪れた悪夢を徹底してドュメント風に仕上げるのに、男女の縺れが必要なのか。もっとシンプルにするべきだろう。

全体的に多弁。これが、この映画に入り込めない要因にもなっている。全編に漂う物語臭さは、作風とは乖離があって鼻につくし、ともすると失笑を誘ってしまう。

少なくとも、パーティシーンが的確で短く、かつ映画導入部の設定が無かったら、この映画から受ける感じはもっと違うものになっていたかもしれない。

昔「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」という映画があったが、手法的には一緒。斬新だと言われている全編手持ちカメラの映像も前例がある。

どちらも諸手を挙げてスゴイと思える映画ではなかったが、取り残された一人が撮影を続ける独白的で一人称的なシーンが強烈であった「ブレア」の方が好感が持てる。

「ブレア」の制作費はたったの3万ドル。こちらは巨額の制作費がつぎ込まれているハズ。

製作は「MI:Ⅲ」で大抜擢されたJ・J・エイブラムス。TVの大ヒットドラマ「LOST」や「エイリアス」も手掛けている人物。

「クローバー」も映画じゃなくて、1時間物のTVドラマ程度で丁度良かったのではないか。

そうすれば、ビデオカメラという設定ももっと活かせたのかも知れない。

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バベル 

物語はモロッコの羊飼いの少年が放った一発の銃弾から始まる。

その事件によってモロッコ、アメリカ、メキシコ、日本を舞台とした各エピソードが連鎖的に繋がっていく構成。

瀕死の妻を助けるべく救いを求める夫、誤解が生んだトラブルに巻き込まれたメキシコ人乳母、人を撃ってしまった羊飼いの少年とその家族、東京に住む聾唖者の女子高生。それぞれの混乱と苦悩。彼らに救いはあるのか。

まず、ケイト・ブランシェットが凄い。

ブラッド・ピット演じる夫とモロッコの砂漠の中のレストランで会話するシーン。彼女のアップ。その表情。深い。

喋らずとも、この夫婦が抱える問題、危うさ、不安がその神経質そうな彼女の顔から汲み取れ、ハッとするのだ。

アカデミー助演女優賞ノミメートの菊池凛子、アドリアナ・バラーザも確かに良いが、あの表情だけでもオスカーものだと思う。

「全体的に登場人物の深みに欠けている」との評を聞く。確かにそういう面も否めない。そのうえ日本との繋がりも少し無理があるように思える。しかしながら、上滑りせず、重厚な趣が破綻していないのは彼女らの演技があってのことだと思う。

言葉が通じないがゆえの誤解と不安。しかし、実際にはそれが問題なのだろうか。

全人類が同じ言語を持っていれば、確かに問題は少ないがゼロではない。現に、夫婦の間にも、メキシコ人と国境警備員の間にも、の山間民族と警官の間にも、共通言語はある。親子の間にも手話という共通言語がある。しかし、伝わらない。

すべては、それぞれが抱いている偏見や恐れが招いたものではないのか。

ラスト、それらを払い去り互いの心を通わせ得たのは「言葉」によってではなかった。

相手に対する姿勢、行動であり、抱擁である。

切羽詰った極限状態まで追いこめられないと、それが分からない。

それが痛々しく悲しいのだ。

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硫黄島からの手紙 

映画の中のお約束で、「動物を虐める者は悪人」というのがある。

何の罪もない無垢な動物を痛めつける者は、その役がどんなに名声があろうが信頼が厚く人望があろうが、観客の敵であり「悪」である。

ましてや死に至らしめる事など、以ての外。極悪非道の鬼畜として扱われるのだ。

硫黄島からの手紙」では、伊原剛志演じる西中尉の愛馬が戦闘開始後真っ先に犠牲となるが、カメラは腹に致命的な傷を負った瀕死の馬を映し出す。

あえて映し出す。これはこの作品が「日本側の視点で描かれている」と言った設定以上に、明らかに痛烈で強いインパクトがある。

殺した者は「悪」であり、観客の敵である。この時点のこの瞬間、その蛮行を目撃した全世界の観客誰もが、誰が敵であるかを認識する。

当然、この映画が作られたアメリカでも例外ではないハズだ。

しかしながら、ある場面ではこれが逆転する。日本人の憲兵隊が理不尽な事で犬を殺すのだ。

「犬も殺せずに、鬼畜米兵が殺せるか」。

犬殺しの命に背いた若い憲兵は最前線の硫黄島に飛ばされる。そこは生身の人と人とが殺しあう殺戮の現場。

奇襲に合い狙い撃ちにされ、あっと言う間に命を落としていく米兵達。火炎放射で焼かれたうえ、射殺される日本兵。

追い詰められなす術を失った上官から自決を迫られ、次々に手榴弾で自決する兵隊達。

捕まえた米兵を袋叩きにし殺傷する日本兵。負傷した米兵の手当てをする日本人士官。

投降しようと脱走した日本兵のひとりは上官に射殺され、もうひとりは投降先でこともなげに米兵から射殺される。

前作「父親たちの星条旗」で、英雄に祭り上げられた兵士達の苦悩を描き、戦争に真の英雄など存在しないことを逆照射して見せたイーストウッド監督。

戦争には一義的な悪や正義など存在しない、戦争そのものが悪。

本作ではそんなメッセージを、前作同様声高でなく、観る者に問いかけた監督と脚本の力量と勇気に脱帽。

死んだ米兵が持っていた母親からの手紙。

それには、飼っている愛犬や近所の鶏の話、そしてわが子を思う母親の気持ちが綴られていた。

あの手紙はきっと、全ての兵士の母親からのと同じだったに違いない。

映画のプロローグで発見されたのは、物語ラスト間際に埋められた手紙の束。

その多くは戦場から家族への手紙と、戦場にいる我が子を思う家族からの手紙だったろう。

61年の時空を超えて、現代に届けられた「硫黄島からの手紙」。

語り部となった西郷を演じる二宮和也のナイーブな演技によって、この映画は傑作になり得ている。

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